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松浦武四郎が歩いた厚真
― 約170年前の記録に残る、厚真とアイヌの人々 ―

はじめに

弘化2年(1845年)~安政5年(1858年)にかけてヤウンモシリ(蝦夷地・北海道)を6回にわたり調査し、地図や記録を残した人物がいました。その名は松浦武四郎(まつうらたけしろう)。

 

このページでは「松浦武四郎が歩いた厚真」をたどりながら、

その記録に残る“人々の暮らし”と“心”を紹介します。

出典:国立国会図書館

​松浦武四郎ってどんな人?

Who Was Takeshiro Matsuura?

松浦武四郎は、幕末に伊勢国(三重県)に生まれ、長崎などの諸国を巡ったのち、ロシアの南下などで北方地域に危機が迫っていることを知り、28歳の弘化2(1845)年に、蝦夷地へと向かいました。

第1回から3回までは自ら経費を工面し、4回目以降は幕府のお雇い役人として調査を行う中で、各地でアイヌの力を借りながら、その暮らしぶりや地名・伝承などを丁寧に記録しました。

また、漁場労働でアイヌを搾取する松前藩の政策を厳しく批判しています。

主に自費出版されたそれらの記録は、今でもアイヌ語地名やアイヌ文化研究の基礎資料となっています。

明治時代に入り、政府からこれまでの「蝦夷地」に代わる呼び名を提案するよう依頼されると、アイヌが尊敬をもって互いに呼び合う「カイノ―(人)」を取り入れた「北加伊道」など6案を示し、「北海道」として採用されました。

所蔵:松浦武四郎記念館

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厚真での記録

Connection to Atsuma

 安政5(1858)年、6回目となる蝦夷地調査で厚真町を訪れた41歳の武四郎は、たくさんの思いやりや優しさにあふれる、今に伝わるいろいろな記録を残してくれました。

厚真川河口から地図に示したルートで上流へ進んだ武四郎は、洪水にみまわれたコタン(集落)の様子や津波伝承、小さな支流の名前なども「安都麻志」や「東蝦夷日誌」に詳しく記録していますので、その足跡を追ってみましょう。

武四郎の歩いた道ルート図【改定】@.jpg
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​松浦武四郎が歩いたルート(動画)

The Route Taken by Takeshiro Matsuura
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出典:東西蝦夷山川地理取調図

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アツマ渡場 

 武四郎は「アツマ(川有り、幅30余間、渡し舟、アイヌの家2軒)」と記録しており、約100ヵ所ある厚真川流域の地名の中で、「アツマ」と記された唯一の場所です。厚真川の渡し船とヒエ・アワ・カブ・インゲンマメなどの小さな畑がありましたが、先日の洪水で水かさが増し、畑も半ば流されたこと、評判の孝行娘がいることも記されています。

 また、「和語でもゝかという獣のことをアイヌ語でアツと言い、マは渡るという意味なので、その獣がこの川を泳いで渡ったことから名付けられたそうです」と書いています。

「もゝか」について武四郎は今の蝦夷地に一匹も見当たらない獣として、カモシカやイノシシの類かと想像していますが、アイヌ語のアッはムササビやモモンガのことを指していますので、写真のエゾモモンガのことかと思われます。

​写真:おびひろ動物園

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フェリー埠頭の語源「シュプン」

 現在の高規格道路北側を流れる厚真川支流のアイヌ語地名です。淡水魚ウグイのアイヌ語名「シュプン」が語源で、厚和地区の旧字地名でした。現在は新日本海フェリーの埠頭名「周文(しゅうぶん)」として残っています。        

もともとシュフ(プ?)ン川のほとりにコタンがありましたが、30数年前の洪水で流されたためキムンコタン(山の集落)に移り住んだと書かれています。

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03

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キムンコタン

9軒46人が住んでいますが、うち15人は勇払会所での漁場労働のため不在で、病人や老人、幼い子供しか残っていないと記されています。

この辺りのコタンは西蝦夷地(日本海側)と違い、10数軒が一条の町のように立ち並び、どこの家でも畑でタバコ・アワ・ヒエ・インゲンマメ・カブなどを作っており、家ごとに10俵20俵のアワ・ヒエを収穫しているなど、東西蝦夷地の様子の違いを述べています。

しかし、先日の洪水で畑が押し流されてしまい、みんな眉をひそめていました。

出典:東西蝦夷山川地理取調図

04

シュブイウシ

キムンコタンから谷間に降りたところがシユブイウシ(シユフイは井泉、ウシは在る)という沢で、井戸を掘ったところ良い水がでたことから名づけられ、極寒の季節でも凍ることなくコタンの飲み水として利用されていることが記されています。

厚和地区には現在も、湧き水(地下水)を利用している上厚真浄水場があり、昔から地下水に恵まれた地域であったことがわかります。

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05

ノヤシベ

現在の軽舞川と野安部川の合流点付近はノヤシベ(ノヤは蓬、ウシは在る、ヘツは川で、蓬の多い川)とされています。普段の川幅は10m程度ですが、洪水のため約20mにも達しており、武四郎たちの行く手を阻んでいました。しかし、案内役のアイヌたちが川に飛び込んで向こう岸に泳ぎ渡り、3・4本の大木を倒して簡単な橋をつくってくれたため、武四郎も荷物も濡れることなく、増水した川を無事に渡ることができたので、「その働き並々ならぬものがあった」と記しています。

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トンニカコタン

トンニカコタンはよく開けた茅野で、家が4軒あり、カシワの木で家を作っていたことから元の名はコムニ(カシワ)カル(作る)と呼ばれ、畑作が盛んであると書かれています。

エカシ(村長)のチセには、イコロ(宝物)のシントコ(行器)30個やキサルパッチ(耳盥)7・8個、エムシ(蝦夷太刀)25・26振、エムシポ(短刀)7・8本などがあり、ここでも西蝦夷地のコタンと比較して豊かな様子を記録しています。

しかし、豊かなこのコタンも男の働き手が雇にとられ、女たちばかりが家に残り、先日の洪水で種籾すら取れず、皆、悲しんでいると記しています。

夜には、粟団子を7つばかりお盆に乗せて振る舞ってくれ、あまりに美味しかったので、2つを食べて、5つは明日の楽しみにサラニ(編み袋)に入れて残したというエピソードも書き記しており、洪水の被害にあいながらも、和人の武四郎を“おもてなし”の心で迎えたアイヌの優しさを伝えています。

また、「初夜頃に犬2匹がしきりに鼻を鳴らして来る。その犬と共に主人が弓を持ち走って行って、ただちに鹿2頭を持ち帰ってきた。これは粟畑に来る鹿を知らせに来た犬が、吠えれば、鹿は逃げるため、吠えずに来たようだ。実によく訓練されている犬である。」と、驚き感心した様子がうかがえます。

北海道犬は優れた猟犬として知られ、昭和12年に天然記念物に指定されています。「厚真系」と呼ばれるのは虎毛模様が特徴で、厚真郵便局の風景印の中にも登場しています。

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出典:国立国会図書館

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粟団子

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厚真犬

出典:東宮殿下行啓記念(下)

07

​ニタツナイ

ニタツナイコタン(人家3軒)では、どの家も洪水で一面泥が溜まって、目も当てられない状況となっており、89歳のご老人の家に玄米1升と煙草1把、味噌1椀を分け与え、他の人にもこれまでの村と同様、それぞれに糸と針を残してきたと記しています。

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出典:東蝦夷日誌三編

08

パピウ

高丘地区の旧地名「頗美宇(はびう)」の元の名はカヒウであると聞き、「カピウ」=カモメがその昔、巣を作って卵を産んだことから名づけられ、カモメは神様のお使いとされているとしています。

アイヌ伝承によれば、こんな川上までカモメが来て巣を営んでいることを不思議に思い、コタンの人たち総出で見物に来たところ、コタンに津波が押し寄せたことから、この地にイナウを立てカモメを神様のお使いとして大切にしているそうです。

高丘地区まで津波が遡上した痕跡は確認されていませんが、噴火湾沿岸を襲った17世紀の津波にまつわる伝承と考えられ、現代の私たちに津波防災の意識を伝えてくれています。

09

トコンマカリ

昔、この川の両岸で神様が輪うけ(輪投げ)をしたそうで、その遊びを子供たちはトコンマカリシノチ(こちらから投げ出した輪を、向こう側で竹の先に受ける)と呼んでいると記録しています。

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出典:東蝦夷日誌三編

現代に伝わる武四郎の功績

Legacy That Lives On Today

武四郎は、厚真を出立する時に洪水の一件を勇払の会所へと報告の早馬を仕立てており、優しさと強い責任感を持った人柄が見えてきます。

そうした功績を現代に受け継ぎ伝えているのが、武四郎の来町100年を記念して厚真村郷土研究会が昭和32(1957)年11月3日に建立した富里地区の「松浦武四郎之碑」で、現在は富里地区にある「ならやま」の敷地内に移設しています。

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歌碑

この石碑には「えみしらも志らぬ深山に分けいらばふみまようべき道だにもなし」という短歌が刻まれており、ヲコッコから厚幌ダムへ向かう山越えの道を詠んでいます。

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松浦橋

北海道の名付け親と言われる松浦武四郎にまつわる石碑や説明板などは道内各地に100ヵ所以上ありますが、橋の名前として残っているのは厚真町富里地区の「松浦橋」だけです。

昭和45年(1970年)に竣工したこの橋の隣に「松浦武四郎之碑」があったことから、橋の名前も「松浦橋」と名付けられたものです。

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これから

約170年前、厚真を訪れた武四郎をこころよく受け入れ、もてなしたアイヌの人々の姿。

そのアイヌの人々に対し手を差しのべる武四郎の姿。

武四郎が残した様々な日誌は民族の垣根を越えた心の交流までもが記されています。

その想いは郷土研究会の活動などを経て、令和の厚真町へ受け継がれており、さらにこれからの人々へと受け継いでいきたいと思います。

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