
松浦武四郎が歩いた厚真
― 約170年前の記録に残る、厚真とアイヌの人々 ―
はじめに
安政5年(1858年)、アイヌモシリ(北海道)を歩いて調べ、地図や記録を
残した人物がいました。その名は 松浦武四郎(まつうら たけしろう)。
武四郎は、厚真川をさかのぼり、そこに暮らすアイヌの人々の生活や出来事、
そして災害の記憶までも丁寧に書き残しました。
このページでは、「武四郎が歩いた厚真」 をたどりながら、
その記録に残る “人々の暮らし” と “心” を紹介します。
出典:国立国会図書館
松浦武四郎ってどんな人?
Who Was Takeshiro Matsuura?
松浦武四郎は、伊勢国(三重県)出身の幕末に活躍した探検家です。
アイヌモシリ(北海道)を内陸部までくまなく歩き、たくさんの地名を地図に記録しました。
アイヌの人たちと交流し、彼らの力を借りて、案内や協力してもらって言葉や暮らしについても丁寧に学び、書き記しました。
その旅は、かず多くのアイヌの人々の案内や助けによって支えられました。
所蔵:松浦武四郎記念館

厚真とのつながり
Connection to Atsuma
武四郎は厚真川の河口から内陸へ進み、いくつかのコタン(集落)を訪れ、人々の暮らしやコタンの様子を詳しく記録しています。
また、洪水や津波の伝承など、災害に関する話も書き残しました。
これらは、厚真の歴史を知るための大切な資料になっています。
「厚真(あつま)」という名前の由来や、川とともに生きる人々の暮らしを「安都摩日誌」や「東蝦夷日誌」に記録しています。

松浦武四郎が歩いたルート(動画)
The Route Taken by Takeshiro Matsuura
今も昔も厚真町の正しい呼び名「アツマ」
The Origin of the Name “Atsuma”
「今はアヅマと濁りて通称するが、その本名は「アツマ」と清く呼ぶという。その語源は、アツ(エゾモモンガ)が川を泳ぎ渡ることから名付けられたという。地元アツマのアイヌの人々は語源を知らず、日高町門別平賀のアイヌから聞くことができた。」と記されています。


01
厚真川河口のアツマ渡船
チセ(家)2軒の小さなコタンで、約100ヵ所ある厚真川流域の地名の中で、「アツマ」と記された唯一の場所です。ここにはフチ(お婆)への親孝行と評判の夫と妻がおり、先年、褒賞が配られたことが記されています。
出典:国立国会図書館
02
フェリー埠頭の語源「シュプン」
現在の高規格道路の北を流れる厚真川の支流付近のアイヌ語地名です。厚和地区の旧地名で、淡水魚ウグイのアイヌ語名「シュプン」が語源です。新日本海フェリーの埠頭名「周文(しゅぶん)」の語源になったアイヌ語地名です。


03
キムンコタン(厚真川流域で最大のコタン)
厚真川筋には5ヵ所のコタン(集落)があり、厚和地区の高台にあったキムンコタン(山の集落)9軒46人が住む最大の集落です。しかし、勇払の会所(役所の出先)、イワシ漁の漁場に働き盛りの男女や子どもまで連れ出され、コタンには病人、老人、小さな子どもしか残っていないことが記されています。
出典:国立国会図書館
04
不凍の泉「シュブイウシ」
キムンコタンから200mほどの場所に掘り抜き井戸が作られており、極寒の冬でも凍ることなくコタンの飲み水として利用されていることが記されています。現在の厚和地区には、湧き水(地下水)も利用している上厚真浄水場があり、昔から地下水に恵まれた地域であったことがわかります。


イメージ画像
05
働き者のアツマのアイヌ
現在の軽舞川と野安部川の合流点付近で、洪水で川幅が約20mにも達し、行く手を阻んでいました。しかし、案内役のアイヌたちが向こう岸に泳ぎ渡り、木々を倒して簡単な橋を作ってくれました。そして馬も数珠つなぎに泳ぎ渡し、武四郎も荷物も濡れることなく、増水した川を無事に渡ることができました。武四郎は「その働き、並々の事にあらず」と褒め称えています。
06
まれにみる、豊かなトンニカコタン
このコタンも土地高く、肥沃で、畑作が盛んであると記されています。さらにチセの中には、イコロ(宝物)のシントコ(行器)30個やキサルシパッチ(耳盥)78個、エムシ(蝦夷太刀)25・26振、エムシポ(短刀)78本も飾っており、これまで訪れた北海道内のコタンとは別格にイコロ(宝物)が多いことに驚き書き記しています。

出典:国立国会図書館
トンニカコタンのコラム

Column


出典:北海道大学附属図書館
厚真犬
今も昔もエゾシカ被害と優れた番犬「厚真犬」。武四郎が宿泊したトンニカコタンでアイヌ犬(北海道犬)のエピソードを次のように書き残しています。 「初夜頃に犬2頭がしきりに鼻を鳴らし来る。その犬と共に主人が弓を持ち走り行き、 ただちに鹿2頭を持ち帰ってきた。これは粟畑に来る鹿を知らせに犬が来て、吠えれば、鹿は逃げるため、吠えずに来る。実によく賢く馴れた犬である。」 と、驚き感心した様子がうかがえます。 そのアイヌ犬、厚真では虎毛模様が特徴で「厚真系」と呼ばれる珍しいタイプで す。 明治時代や大正時代にも様々なエピソードが記録され、現在では、厚真町を象徴する獣として「厚真犬」と呼ばれ、厚真郵便局の風景印の中にも登場しています。
粟団子
武四郎が訪れた厚真は、洪水の直後で畑も流され、家の中まで泥水が入る大きな被害が生じていました。しかし、泊まった家では、夜に粟団子を7つほどお盆に乗せて振る舞ってくれました。そのうち2つを食べて、あまりにも美味しかったので、残る5個は明日の楽しみにサラニプ(編み)に入れ残すとういエピソードも日誌に書き記しています。 たくさんの旅をしてきた武四郎にとって、日誌に書き残すほど、とっても美味しかったのでしょう そして、洪水で被害にあいながらも、和人の武四郎に“おもてなし”で迎えてくれるアイヌの人々の優しさも伝わるエピソードと武四郎のお人柄が垣間見えます。
07
内陸部に残る津波伝承
現在の高丘地区の旧地名「頗美宇(はびう」の津波伝承を記録しています。
「カモメは海辺に住むが、昔、ここに飛んできて巣を作り、雛をかえした。その時、津波が海辺の全てをのみ込んだ。よってそのカモメはカムイの使者と言われ、今はその場所を敬い、ここ来た時には必ずイナウを供えるため、数多くが立っている。」(東蝦夷日誌)
現在の高丘地区まで津波が遡上した痕跡は確認されていませんが、厚真川下流域を遡上したであろう1611年の慶長三陸津波を記録したものと推定しています。
現代の私たちにも防災意識を伝える貴重なアイヌ伝承です。

出典:国立国会図書館
08
カムイの輪投げ伝承
両岸が崖となった「トコンマカリ」(現富里地区)の伝承です。
「昔、こっちとあっちに分かれて神様たちが遠から投げ出し、輪受けをしていたという。今は、竹で輪を受ける子どもたちの遊びとなっている」(東蝦夷日誌3編)
と記録されています。この地域には、カムイの伝承や日々の子どもたちの遊びに至るまで、数多くのアイヌ伝承が松浦武四郎によって記録されています。

出典:国立国会図書館
現代に伝わる武四郎の功績
Legacy That Lives On Today
約170年前に厚真町を訪れた松浦武四郎は、当時の厚真にたくさんの優しさと、今に伝わるいろいろな記録を残してくれました。その功績を現代に受け継ぎ伝えているのが、富里地区の「松浦武四郎之碑」です。武四郎の来町100年を記念して厚真村郷土研究会が昭和32年11月3日に建立したものです。


歌碑
この石碑には厚真町オコッコ沢付近で詠まれた「えみしらも 志らぬ深山に 分いらば ふみまようべき 道だにもなし」という短歌が刻まれております。深い山々の中に勢いよく流れる沢水の音だけが渓谷に響きわたる、もの寂しさを読んだものです。

松浦橋
北海道の名付け親と言われる松浦武四郎は道内各地に100ヵ所以上の石碑や説明板などありますが、橋の名前として残っているのは厚真町富里地区の「松浦橋」だけです。
昭和45年(1970年)に竣工したこの橋の隣りに「松浦武四郎之碑」があったことから、橋の名前も「松浦橋」と名付けられたものです。
※現在、石碑は「ならやま」の敷地内に移設しております。
武四郎の記録が今に伝える
厚真の備えと支え合う心
武四郎が訪れた安政5年(1858年)6月21日は現在の新暦の8月1日に当たります。
この時期は現在でも「蝦夷梅雨」にあたる時期で、武四郎は大雨・洪水被害の直後に厚真を訪れ、その被害の様子を記録しています。
約170年前、松浦武四郎が記録した洪水の出来事や人々の助け合いの姿は、現在の厚真の防災意識にもつながる大切な記録となっています。
武四郎が残した洪水の記録
・アツマ渡船 洪水の水が上がり、畑も半ば流された。 ・キムンコタン 洪水にて畑、全て押し流されて、皆、眉をひそめている。 ・ノヤシベ 洪水で水が引かず、川幅がふだんの倍にも広がっている。 ・トンニカコタン いずれの家も粟稗15・16俵ほど収穫しているが、先日の洪水で、種もみすら取れ ず、皆、悲しんでいる。 ・ニタップナイコタン 家の中一面、泥にまみれ、実に目も当てらない。老人と娘の二人暮らしの家には、玄米1升、味噌ひと椀などを置いてきた。 ・これらの厚真川筋の洪水被害について、勇払会所に被害 甚大との報告の早馬を出した。 厚真町は昔から厚真川の洪水との闘いがあり、武四郎は人々にお見舞いを渡し、当時の役所にも被害報告をのため貴重な馬を走らせるなど、厚真町の偉人でもあります。

